人間見聞録・・・アイク生原先輩から学ぶ

アイク生原先輩・・・本名 生原昭宏先輩。

私の母校、田川高校の先輩です。1度、伝え・伝わるシリーズで書かせて頂いた事がありましたが、今日は、このシリーズで書かせて頂きます。

生原先輩は、田川高校の野球部時代、キャッチャーをされていたようで、その後、早稲田大学に進学し、やはり野球をし、亜細亜大学、リッカーミシン野球部の監督をされていたそうです。

その折、鈴木惣太郎さんとのご縁とご紹介により、アメリカにあるドジャースというメジャー球団に勉強に行く事になったそうです。

日本では、野球の監督まで努めた先輩が、アメリカに行き、選手たちのグローブやバットを磨いたり、野球道具の整理等、とにかく下ずみで、ただ黙々と自分の仕事を、係っている選手達が活躍する事を祈りながら日々、全うされていたそうです。

そんな折、ドジャースの会長が息子さんのピーターオマリー氏に代わり、日本の野球との縁を持つ方向へとシフトされて行く様になってきたそうです。そこで皆からアイクの通称で呼ばれ、親しみを持たれ、人間的な強さとひたむきな姿勢で仕事をしている生原先輩にお声がかかり、アメリカと日本の架け橋的存在として、会長補佐になられたと伺っています。これは、凄い出世だったんではないか?と思います。

私の推測ですが、ひたむきに選手達の為に行う仕事が、プロとして、1つの事に打ち込むお手本的な姿勢として現場の選手達の心を動かし、その生き方が高くドジャースの中で評価されたのだと思います。もしかしたら、野茂選手がアメリカに行き、最初に活躍したチームがドジャースでした。これは、生原先輩のこの姿勢が高く評価され続けた証かもしれません。

その後は、日本球界とアメリカ球界の架け橋として、巨人軍がベロビーチでキャンプを行ったり、日本球界の2軍選手達が、生原先輩の下に野球留学したりと、命がけでその役割を全うされようとしていました。

私が、生原先輩にお会いさせて頂いたのは、今から22年前になります。当時、ドジャースは、ワールドチャンピオンになり、ハーシュハイザー、マレー、バレンズエラという有名なメジャー選手がたくさん居るチームでした。私がベロビーチで先輩にお会いさせて頂いたのは、その翌年のスプリングキャンプ中でした。

家族のオリンピックをしたい!!長島茂雄さんに旗振り役をしてもらいたい!!その一心で単身、生原先輩に長島茂雄さんを紹介していただくお願いをする為にアメリカに渡りましたが、現地でお会いする生原先輩の、そのオーラに圧倒され、最初は、何も言えない・・自分が何の為にここに来たかさえも言えないその迫力を、肌で感じた事を今もはっきり覚えています。

野球がしたい!野球が上手くなりたい!と思う人間の為に、国籍は関係なく、生原先輩は、惜しみなく自身の持てる力をその選手の為に注ぎ込み、その選手を思い、その選手を育成されているその、『一意専心』の極みの様なオーラが、私を氷つかせました。

『まだまだ半端で、いきがっているこの俺が、生原先輩にそんな事が言えるのか?命がけで打ち込んでいる先輩にそんな事を言っていいのか?お前は、先輩の様にできるのか?』

何の話も出来ず、ただただ、先輩が、いろいろな方々とお話しているその姿を横で見ているだけでした。しかし、私の心は、嬉しく・躍動し、今までの暗い過去の事が全て消えていってしまっている状況でした。まさにリセット状態でありました。

いよいよドジャータウンから離れるその時、先輩が、ウエストパームビーチまで車で送ってくれたのですが、車中、『鷹尾君、僕に話したい事があったんじゃないかい?その為にここまできたんだろう?』『はい、実は、家族のオリンピックが開催できる様にしたいのです。でも私には力がありません。誰に旗を振ってもらったらいいか?って考えたんですが、長島茂雄さんに振ってもらったらどうか?と思ったんです・・・』私は、ここまで言えたか、どうかはっきりとは覚えていませんが、多分、もごもごと話をしたと思います。意気込んでアメリカにいきましたが、生原先輩の生き様に触れると、そんな事が言えませんでした。

『まず、3年間、社会で一生懸命頑張りなさい・・』そんなメッセージを頂きました。

帰国後、お礼の手紙を先輩に書きました。それからしばらくして葉書が贈られてきました。ドジャータウンの葉書に万年筆でかかれていました。その葉書に

『本当は、君が、伝えたいことがあったんだろう。その君の心を察してあげられなくてすまなく思う。いつか、それを話す事ができるようになった時に、また会おう。アメリカで待っている・・』と言う様な内容でした。

必ず、胸を張り、先輩に会いに行きます。必ず・・・そう胸に誓いました。

生原先輩が、ひたむきに、自我を捨て、その目的の為に、一心に力を注いでいるあの姿、あの生き様を、きっと私もしてみせます。その姿をお見せしますので、待っていて下さい・・・そう心に誓いました。

私が社会に出て、3年の月日が経過しようとしていました。私は、2度目の右肘手術入院中でした。私は、病院で、生原先輩が、人生の幕を閉じた事を知りました。その時、くしくも長島一茂を、ベロビーチで教育中だったのですが、先輩は、胃がんに勝てず、帰らぬ人となりました。

あの時、もう一度・・と約束した事、先輩のあの笑顔を見たい・・悔しくてしょうが無い気持ちでやるせなかったあの当時を今、再び、思い出します。

中日ドラゴンズの山本昌投手が200勝を達成した際、アメリカの生原先輩の墓参りをしている映像がテレビから流れました。山本昌投手は、私がアメリカに行く1年前に先輩の所に修行に行っていました。そして、先輩とは、師弟の間柄でした。

テレビから当時の写真、映像が流れます。山本投手の目から零れ落ちるものやその目元を見ると、今まで貯めていた感情が全て出てきて、私も、大きく崩れました。

あの日、心に誓った約束・・ あの日、先輩に誓った約束・・ 今、打ち込める何かをみつけた私。先輩、それは、先輩と同じです。

私も、近づけるよう、1日を踏みしめて生きていきます。

Filed under: スタッフ日記 — takaotsuyosi 10:47 AM  Comments (0)
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