人間見聞録・・・岡田監督から学ぶ

サッカー日本代表 岡田監督

PK戦で見せてくれたあの表情・・・

そのKが、入ろうが、入るまいが、ただ一点を見つめ、見守る・・・

『大丈夫だ、大丈夫だ、攻めろ!攻めるんだ!その先に、初めて見えるもの、掴めるものがあるんだ。』『今まで、自分を信じ、自分と戦ってきた俺達だ。今こそ、自分と仲間を信じて、迷いなく、恐れることなく蹴りこむんだ。』

1点を見据えたその表情に、そんな言葉が思い浮かびました。

あのKがはずれた瞬間、全く表情を変えなかった岡田監督・・・何を思っていただろう。

きっと、勝つ事を信じていたに違いない・・きっとこのチームで試合が出来たこの瞬間を幸せに感じていたに違いない・・

戦い抜いた男たちの美しい姿と、心の底から湧き出た涙 を見せてくれて ありがとう・・・

信念 ・ 無常(常なし) ・・ 岡田監督、見せてくれてありがとう・・・

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人間見聞録・・・アイク生原先輩から学ぶ

アイク生原先輩・・・本名 生原昭宏先輩。

私の母校、田川高校の先輩です。1度、伝え・伝わるシリーズで書かせて頂いた事がありましたが、今日は、このシリーズで書かせて頂きます。

生原先輩は、田川高校の野球部時代、キャッチャーをされていたようで、その後、早稲田大学に進学し、やはり野球をし、亜細亜大学、リッカーミシン野球部の監督をされていたそうです。

その折、鈴木惣太郎さんとのご縁とご紹介により、アメリカにあるドジャースというメジャー球団に勉強に行く事になったそうです。

日本では、野球の監督まで努めた先輩が、アメリカに行き、選手たちのグローブやバットを磨いたり、野球道具の整理等、とにかく下ずみで、ただ黙々と自分の仕事を、係っている選手達が活躍する事を祈りながら日々、全うされていたそうです。

そんな折、ドジャースの会長が息子さんのピーターオマリー氏に代わり、日本の野球との縁を持つ方向へとシフトされて行く様になってきたそうです。そこで皆からアイクの通称で呼ばれ、親しみを持たれ、人間的な強さとひたむきな姿勢で仕事をしている生原先輩にお声がかかり、アメリカと日本の架け橋的存在として、会長補佐になられたと伺っています。これは、凄い出世だったんではないか?と思います。

私の推測ですが、ひたむきに選手達の為に行う仕事が、プロとして、1つの事に打ち込むお手本的な姿勢として現場の選手達の心を動かし、その生き方が高くドジャースの中で評価されたのだと思います。もしかしたら、野茂選手がアメリカに行き、最初に活躍したチームがドジャースでした。これは、生原先輩のこの姿勢が高く評価され続けた証かもしれません。

その後は、日本球界とアメリカ球界の架け橋として、巨人軍がベロビーチでキャンプを行ったり、日本球界の2軍選手達が、生原先輩の下に野球留学したりと、命がけでその役割を全うされようとしていました。

私が、生原先輩にお会いさせて頂いたのは、今から22年前になります。当時、ドジャースは、ワールドチャンピオンになり、ハーシュハイザー、マレー、バレンズエラという有名なメジャー選手がたくさん居るチームでした。私がベロビーチで先輩にお会いさせて頂いたのは、その翌年のスプリングキャンプ中でした。

家族のオリンピックをしたい!!長島茂雄さんに旗振り役をしてもらいたい!!その一心で単身、生原先輩に長島茂雄さんを紹介していただくお願いをする為にアメリカに渡りましたが、現地でお会いする生原先輩の、そのオーラに圧倒され、最初は、何も言えない・・自分が何の為にここに来たかさえも言えないその迫力を、肌で感じた事を今もはっきり覚えています。

野球がしたい!野球が上手くなりたい!と思う人間の為に、国籍は関係なく、生原先輩は、惜しみなく自身の持てる力をその選手の為に注ぎ込み、その選手を思い、その選手を育成されているその、『一意専心』の極みの様なオーラが、私を氷つかせました。

『まだまだ半端で、いきがっているこの俺が、生原先輩にそんな事が言えるのか?命がけで打ち込んでいる先輩にそんな事を言っていいのか?お前は、先輩の様にできるのか?』

何の話も出来ず、ただただ、先輩が、いろいろな方々とお話しているその姿を横で見ているだけでした。しかし、私の心は、嬉しく・躍動し、今までの暗い過去の事が全て消えていってしまっている状況でした。まさにリセット状態でありました。

いよいよドジャータウンから離れるその時、先輩が、ウエストパームビーチまで車で送ってくれたのですが、車中、『鷹尾君、僕に話したい事があったんじゃないかい?その為にここまできたんだろう?』『はい、実は、家族のオリンピックが開催できる様にしたいのです。でも私には力がありません。誰に旗を振ってもらったらいいか?って考えたんですが、長島茂雄さんに振ってもらったらどうか?と思ったんです・・・』私は、ここまで言えたか、どうかはっきりとは覚えていませんが、多分、もごもごと話をしたと思います。意気込んでアメリカにいきましたが、生原先輩の生き様に触れると、そんな事が言えませんでした。

『まず、3年間、社会で一生懸命頑張りなさい・・』そんなメッセージを頂きました。

帰国後、お礼の手紙を先輩に書きました。それからしばらくして葉書が贈られてきました。ドジャータウンの葉書に万年筆でかかれていました。その葉書に

『本当は、君が、伝えたいことがあったんだろう。その君の心を察してあげられなくてすまなく思う。いつか、それを話す事ができるようになった時に、また会おう。アメリカで待っている・・』と言う様な内容でした。

必ず、胸を張り、先輩に会いに行きます。必ず・・・そう胸に誓いました。

生原先輩が、ひたむきに、自我を捨て、その目的の為に、一心に力を注いでいるあの姿、あの生き様を、きっと私もしてみせます。その姿をお見せしますので、待っていて下さい・・・そう心に誓いました。

私が社会に出て、3年の月日が経過しようとしていました。私は、2度目の右肘手術入院中でした。私は、病院で、生原先輩が、人生の幕を閉じた事を知りました。その時、くしくも長島一茂を、ベロビーチで教育中だったのですが、先輩は、胃がんに勝てず、帰らぬ人となりました。

あの時、もう一度・・と約束した事、先輩のあの笑顔を見たい・・悔しくてしょうが無い気持ちでやるせなかったあの当時を今、再び、思い出します。

中日ドラゴンズの山本昌投手が200勝を達成した際、アメリカの生原先輩の墓参りをしている映像がテレビから流れました。山本昌投手は、私がアメリカに行く1年前に先輩の所に修行に行っていました。そして、先輩とは、師弟の間柄でした。

テレビから当時の写真、映像が流れます。山本投手の目から零れ落ちるものやその目元を見ると、今まで貯めていた感情が全て出てきて、私も、大きく崩れました。

あの日、心に誓った約束・・ あの日、先輩に誓った約束・・ 今、打ち込める何かをみつけた私。先輩、それは、先輩と同じです。

私も、近づけるよう、1日を踏みしめて生きていきます。

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第6回 笑老ライフ勉強会 開催のお知らせ!!

今月9日に行いました第5回の笑老ライフ勉強会では、『医療保険』の事について、福岡県の重松様を講師にお迎えし、その現状と対策について勉強しました。

その際、予防・生きがい創り・住まいの3キーワードが、その対策キーワードとしてあげられました。

それを受けまして、この度、福岡県の方と協議をしました結果、下記のテーマで勉強会を開催したい!!と思います。皆様、奮ってご参加下さいませ。

 日 時 : 平成22年7月21日(水) 19:00~21:00

 場 所 : アミカス高宮 2階 研修室A・B

 内 容 : はつらつと元気に暮らすために  福岡県健康増進課 林田 ひろみ様

 参加費 : 500円  ※なお、会員様は無料です。

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人間見聞録・・・金蔵 清繁さんから学ぶ

アマチュアの野球界で、この名前をご存知の方は、多くいらっしゃると思います。通産本塁打数も、500本を越え、ある意味、何かを極めた人の1人だと思います。

そんな金蔵さんとの出会いは、今から3年前の春でした。

見るからに、熊さんの様な風貌で、近寄り難い人だったのですが、意外と目元あたりは、優しい人をイメージさせる目元だったので、話しかけてみました。すると、つっけんどうな物言いでしたが、その奥には、やはりキラリと光る人間的な深さを感じるものがあり、きっといい人に違いない・・と思った記憶があります。

それからお付合いが始まり、ザ・金蔵さんを事あるたびに実感し、その行動を見てきました。

ある時は、チームの為に、自らが犠牲になり自らの費用でチームの監督室を創ったり、選手が練習できる様にと、練習環境を整えたり(多分に仕事を犠牲にしてきたはずです)・・・

こういう行動の背景には、金蔵さんの人生があります。野球をしたい・・そんな一念を持った金蔵少年。しかし、自らの意志と反し、出来なかった。いつか野球をするんだ・・絶対するんだ・・そう自分に言い聞かせてきた青年期。

社会人になり、その時を迎え、堰をきったように走り出した草野球!!練習に練習を重ね、勉強に勉強を重ね、どうすれば満足いくプレーができるか?どうすれば、チームが勝てるか?どうすれば、永く野球が出来るか?の日々が続いたそうです。

その成果は、年々素晴らしい結果となって現れ、周りから見ると、ミスターの称号に相応しい状況にあると思います。

そんな金蔵さんには、2人の息子がいます。その2人の息子が中学生となり、硬式野球をしているのです。金蔵さんがしたい!!と思っていた野球を、息子2人が行っています。いつか心に思ったあの『野球がしたい・・』を、今息子達がやりたいといっている。『させてあげたい・・何が何でもさせてあげたい。』

こんな思いになり、自分と誓ったのではないでしょうか。

来る日も来る日も、子供達が野球の練習ができる為に、グランド環境を整えています。仕事を振り切ってでも・・・

そんな金蔵さんが、酔っ払うと良く言う事があります。『ある大会の時、平和台球場で試合をした。これに勝てば全国!!と言う試合で、足が震えながらバッターボックスに入った。センター方向に打つ積もりで打つ場所を探していたその時、親父と姉貴がバックスクリーンの所に座っていた。初めて野球の応援にきてくれた、初めて認めてくれた。と目頭が熱くなりながら、絶対あそこに叩き込む。と誓い、フルスイングした打球がバックスクリーンに飛び込んでいた。』『親父、姉御・・ありがとう・・・』

『わしは、裏切るよりも裏切られた方が良い。人を裏切る事はしたくない・・』

人を良~く看る金蔵さん、その人の強い所も、弱い所も見て、受け止めその人と接し、その人を良い方向に導こうとする金蔵さん、この方の様な器の大きな人間になりたいとです。

まだまだ修行の続く鷹尾さんです・・・

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人間見聞録・・・日本サッカーから学ぶ

ワールドカップ日本代表・・お疲れ様でした。ナイスゲームでした。次戦も、挑戦し続けて下さい。

私は、LIVEを見なかったので、朝のニュースを見て、この結果を知りました。夢の中で、少~し嫌な状況でしたが、現実は・・・

大会前の状況からすると、ここまでの戦いが出来るチームではなさそうでした。しかし、岡田監督をはじめ、チーム全体は、1点だけを見つめて戦っていたのだと、今朝、思い知らされました。

私は、家族・仕事・野球・各種団体で、チームを体験していますが、チーム創りは、本当に奥が深く、興味のとてもある分野で、直ぐにチームワークの良いチームを構成する事はできません。介護を行う上でも、良いチームが出来ないと、利用者の方、家族の方に満足して頂く事が出来ません。

今回は、ベスト4に行く!!という目標を定め、どの様なチーム構成で、どの様な戦術で戦えば良いのか?について、岡田監督の中では、構想は出来上がっていたのでしょうが、それを実践する上で、どうするべきか?をずーと模索していたと思います。

大会前、全然勝てませんでしたが、その中で、いろいろな観点から、その可能性を模索する為に、いろいろ試し、1つの結論を導き出したのでしょうね。言わば、しっかりと、選手1人1人の個性や特技、能力の把握と相手方のチーム分析ができていたのでしょうね。その結果、導き出された答えが、目標だけをじーと見据え、選手個々の力が最大限発揮できる戦術に変更し、選手を活かし、チームを強化する方法をとられたと思います。

これは、岡田監督をはじめ、コーチ陣の『知りたい』のシツコサ と 把握力 と分 析力の深さ と 勘やきれの鋭さ の賜物だと思います。多分、集中し、よ~く選手個々を見て、掴みきったんでしょうね。

その結果今の布陣となり、その布陣が、選手個々が思う布陣と合いまり、しっかりと噛合う中で、やれる自信がみなぎり始め、まとまりのあるチームを創ろう! 1つになろう!! へと進化し、団結したチームワーク創りへと意識が集中できたと思います。

フランスやイタリアは、1次リーグで敗退しました。ご存知の様に、フランスは、日本と間逆のチーム状況だったんじゃないか?と思いますよ。

結束が強く、明るい家族、業績の良い会社、結果を残すスポーツチーム等々は、多少違いがあるにせよ、今の日本と同じ状況にあるのではないか?と思います。

最近、親が子供を虐待する事件が多い様に思います。

今、日本に必要な事は、岡田監督率いるサッカー日本代表チームが今に至った過程を分析し、その本質を掴み、日本社会全体で、その本質を共有し、教育に活かす事だと思います。

ますます少なくなるであろうと言われている日本人、今こそ、『人を看守る。人の本質を見る。そして、それを活かす。』その事ができる人財をいっぱい創る必要があると思います。そうすると、看て頂いている安心感があり、安心して事に取組め、力を発揮する事ができると思います。

小泉内閣の際、リストラと言う名のもと会社の中で、『仲間のヒト切り』を行ってきました。あれ以来、ヒトの心は傷つき、安心感が無い中で生きている人が多いと思います。言わば『自分だけ良ければ良い、他は知らない』ではないでしょうか?

しかし、それでは、何の為にこの世に産まれ、今を生きているのかの意味がないと思います。

私は、今回の日本サッカーが証明してくれた『1人になるな。1人にするな。』この言葉の裏にある、岡田監督が実践されたあの『看て護る』が、この社会での主流的な生き方の指標になる事を願います。

岡田監督をはじめとする日本代表チームの方々・・本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。是非、目標を達成して下さい。皆さんなら、それが出来る状況にあると思います・・・

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人間見聞録・・・竹森さんに学ぶ

6月から人生初めてのダイエットに臨み、7.2Kg程、体重が下がりました。運動する・・夜食べない・・食事量を減らす・・お酒を1週間に1度とする・・を行った結果です。今までが異常で、それだけ無駄な脂肪がついていたのでしょうね。

話は変わりますが、今日も、人間見聞録シリーズを始めたいと思います。今日、登場して頂きますのは、広成建設の竹森浩幸さんです。

私が竹森さんと出会ったのは、今から10年前になります。

その当時、私は、三好不動産の三好社長と、福徳不動産の福島社長が創られた、エム・サポートという会社で、不動産オーナー様の為に、不動産企画の仕事をさせて頂いておりました。言い方を変えれば、オーナー様に本当に喜んで頂く事で、真に『三方良し』の仕組みが出来、この仕組みが、不動産・建築の業界にできる。それを我々が行おう!という仕事でした。

その当時は、デフレ状況で、物の価値がどんどん下がっている社会状況でした。この状況下こそ、その様な仕組みが創り易い!と言う事で、推進していたわけです。その時に、竹森さんと出会いました。

彼は、私より、3つ程お兄さんで、島根県出身です。建設会社の人には珍しく、趣旨に非常に賛同して頂き、とっても人間らしい人だな~という印象を持ちました。(他の建築会社の方は、我々の動きをとっても敬遠されていました)

この様な方ですので、実際、事案が発生し、それまでの建築会社の方でしたら受注してくれない様な案件でも、趣旨を見据えながら、企業努力をして頂き、その趣旨が実現する為の汗を、一生懸命かいてくれ、それらの工事を請けてくれます。

忘れる事の出来ない事案があります。福岡市内のとある場所で、賃貸住宅+自宅で、土地の有効活用を計りたい!!というオーナー様からの依頼がありました。その場所は、住宅密集地であり、隣地との境界も明確ではなく、隣地の方が敷地一杯まで家を建てている様な場所でした。おまけに、その住宅も古く、相当な築年数のある家です。

現地の調査・分析・企画・諸条件の整えと、進行させていく中で、大きな問題が2点ほどありました。1点は、融資。1点は、建築金額と工事を請けてくれるか?でした。

融資の面は、熟考の末、何とか融資して下さる手配がついたのですが、それを実現させる建築の分野で難儀していました。

竹森さんは、内心、やっかいな案件だな~と思っていたと思うのですが、この案件の意義と趣旨をきっちり掴み、受け止められ、持ち前の粘り強さを遺憾なく発揮され、見事、望み通りの金額を出して頂き、工事に着手してくれました。

しかし、工事が始まってからが1大事!!

基礎工事中、隣地の古い住宅の住人が、家が傾いた!!という事で、竹森さんに怒鳴り込みに行かれたそうです。ここからが更に竹森さんらしい・・・

竹森さんは、朝からその隣地の方の所に伺い、ずーと、ずーと話をしています。時には、場所を寿司屋に変え、解りあえるまで、ずーと・ずーと話をされました。

するとそこからですが、隣地の方の対応が変わってきたのです。竹森さんが、隣地の方の気持ちを汲み取り、その気持ちが治まり、前向きになってき、オーナー様に対する悪い感情も消え、金銭欲をも鎮めたのです。

この最中、私は、何度と無く竹森さんと焼鳥を食べに行き、途中経過を伺っていました。その時に垣間見る、人間竹森・・さんは、とっても魅力的で、1点を見つめた心の大きな人に感じました。めったに酒に酔わない竹森さんが、ついつい酔っ払い、口に出された言葉があります。とっても印象的な言葉だったのでお伝えします。

『義を持って、義をつくせ。義はつくせども、義を求めず。己の生き方は、自らの義を、いかんなく力を注ぎ込める大義に向けてのみ活かす事を、信義とする。』

何とも竹森さんらしいお言葉です。

竹森浩幸さん・・・今から、ずーとお付合いをさせて頂きたい、とっても信頼のできる人です。どうぞ、これからも宜しくお願いします。

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人間見聞録・・・松本さんから学ぶ

今日は、沖縄の全戦没者慰霊祭が行われています。戦争の無い、平和な日本を考えた時、沖縄の皆さん、戦争でお亡くなりになられた皆さんのお陰である事を、強く心に刻まないといけないと、自分に言い聞かせました。普天間高校の女学生の詩の後に、管総理大臣が来賓挨拶をされていたのをラジオで聞きました。何と言っていいか・・言葉にならないですね。

そのラジオを聴きながら、信号停車をしたので、前の車と後ろの車のチェックをしましたら、前の車のナンバーが、1111.後ろの車のナンバーが、333.不思議な感じ・・・

話は変わりますが、高校で完全燃焼し、目標が全くなくなった私は、両親のお陰で、大学に行ける様になりました。この4年間で、目標を見つける事がその理由でした。

大学に入り、今まで野球しかしていない私は、何も出来ない人間である事に気づきました。野球以外、ほんとにな~にも出来ないのです。一番ダメだと思った事は、人の顔をみて話が出来ない事でした。特に女性の顔は見れませんでしたし、見たとしても、直ぐ顔が赤くなる状態でした。

そんな自分を変えたい!!と思った私は、いろいろアルバイトを行いましたが、自分を鍛える為には、『このバイトだ!!』と思うバイトの面接を受け、とうとう念願の東急ホテルアネックスで、バーテンのアルバイトをする事になりました。これは、石井マネージャーのお陰です。バーテンは、カウンターに入り仕事を行いますので、どうしてもお客様と会話をしないといけません。堀口さん(同じバイト先のお姉さま。私より、9つ上の才女です)にいつもいつも助けて頂きながら、何とか話ができる様な自信がつき始めたその矢先、そのバイトの帰りに交通事故に会いました。

1つ1つ積み上げてきていただけに、また最初からやり直さないといけない・・両親に心配をかけるだろうな・・・と心身ともに大きな事故でした。

救急車で病院に運ばれ、手術も行われ、徐々にリハビリを行う状況になった頃、夜が退屈で、ロビーに行った際、スポーツ刈りをしているいかつい叔父さんが私に話しかけてきました。それが松本さんです。松本さんは、板前さんで、とても頭のいい、原理原則に基き生きている人でした。

私と松本さんの交流は、お互い病院を退院し、松本さんが、当時東芝クラブの支配人をしていらっしゃったので、そこに伺い、いろいろと教えて頂く・・という付き合い方でした。

私が松本さんのお宅に伺うと、いつも質問から始まります。『鷹尾、〇〇と言う出来事を、お前ならどう考えるか・・』『松本さん、わかりません。』『鷹尾、お前は、ほんとにバカやな~もっと勉強せい・・』この様にいつもいつも叱咤激励をして下さった後、政治・経済・国際情勢等々・・あらゆる分野について、松本さんなりに分析をし、私に解説をしてくれました。その際、物理を勉強していた松本さんは、私に視点の置き方や考え方についていろいろと教えてくれました。出来の悪い弟に教えるように、丁寧に・・・

それから松本さんとのお付合いはずーと続きましたが、ある時、突然、私の許可も無く、勝手に亡くなられました。残念でなりませんでした。

松本さんが、私に教えてくれた事、私にくれた言葉は沢山あります。ほんとに気持ちのこもった言葉をくれました。その中で、紙に書いて下さった言葉をご紹介したいと思います。

『成せばなる。成さねばならぬ何事も。成さぬは、人のなさぬなりけり。』

今、私が松本さんと出会ったころの、松本さんの年齢になりました。私が、松本さんにして頂いた様に、私も後輩に、智恵を伝えていく役目があると思います。松本さんはきっとそれを期待してくれていると思います。

松本さん、見ていてください・・頑張ります!!

Filed under: スタッフ日記 — takaotsuyosi 1:48 PM  Comments (0)

人間見聞録・・・伊藤幹郎先生から学ぶ

伊藤幹郎先生・・福岡県立田川高等学校の先生であり、野球部の監督でした。

1980年・・田川高校は、夏の甲子園大会に出場しました。当時は、田川の街から初めての甲子園出場という事で、町全体がお祭り騒ぎ状態でした。

甲子園では、現ソフトバンクホークスの1軍投手コーチの高山さん率いる秋田商業に惜敗をしました。あのイレギュラーがなければ・・・

伊藤先生は、この時の野球部部長でした。私は、当時は中学2年で、右肘が痛く、医者からは、当分野球を辞めなさい。と言われ、なくなく陸上をやっている最中でした。

『田川高校が甲子園に行った!!』・・私の心は、かき乱れ、陸上をやめ、すぐさま野球部に復活する事にしました。『もう右肘が潰れてもいい。俺も絶対甲子園に行く!!』・・周りは見えず、人のアドバイスも聞かず、野球まっしぐらです。

受験シーズンは、1日8時間の猛勉強!!その甲斐があり田川高校に進学できました。

私が田川高校野球部に入った時、伊藤先生は、野球部長でした。来る日も来る日も授業が終わり、野球の練習です。いつもいつも我々選手の為にノックの嵐、練習メニューを考える、練習試合を組んでくれる・・等、私達の為にご尽力を頂きました。

私が高校1年の冬、右肘がパンクし、手術をする事になりました。野球部を辞めないといけなくなったのです。手術から10ヶ月、私が高校2年の時の冬、それまでどのようにして高校生活を過ごしていたか記憶のない私に、ここから鮮明に記憶が戻ってきます。グランドでトレーニングをしている仲間と一緒に練習をしたい!!その思いを、私は、伊藤先生に伝えに行ったと思います。(記憶がありません)その後、仲間と一緒に練習に参加させて頂ける事になり、何とも嬉しい私は、毎日、野球の練習が、みんなとできる喜びをかみ締め、皆を引っ張る位の積もりで、冬の練習に取組んでいました。

長い冬から春を迎えようとしていたある日、キャプテンの鈴木から、『鷹尾、ちょっと・・・』と呼ばれました。この時、伊藤先生は、監督になっていました。

『今、春の大会のベンチ入りメンバーの発表が監督からあった。その中で、鷹尾、お前もベンチ入りになっちょった。先生が言いよったけど、3年がベンチ入りできんでも、鷹尾はベンチ入りさせる位の気持ちだったみたいぞ・・』

その話を聞き、『天にも舞い上がる』とは、まさにこの事を言うのだと思います。ベンチ入りとか、野球の試合とか、全然考えてもいませんでしたが、伊藤先生は、見守っていて下さったのです。零れ落ちる涙が頬を伝い、先生が見ていてくれた嬉しさとかみ締めていました。嬉しかった・・

『人を見守る・人を看る』・・これは、中々難しい事です。どうしても主観や我欲が先に立ち、それが中々出来ません。わが子との関係の中でも、それが中々難しい・・・

その中で、伊藤先生は、私にそれを教えて下さいました。私は、その体験をしてから、何かが変わったと思います。

8歳年下の末の妹、淳子(現在、マザートークとして活躍中!!)が田川高校に行き、伊藤先生と話をした際、伊藤先生がこの様に言ったそうです。『兄ちゃんは元気にしているか?兄ちゃんの事を心配している。兄ちゃんに遊びに来る様に言っといて。』

夏の大会が終わり、抜け殻の様な状態になっていた私、完全燃焼した私、次の目標を見つける事が出来なくなっていた私・・そんな私を案じてくれていたのでしょう・・・

この話は、伊藤先生がお亡くなりになって1年後位に妹から聞きました。『何でもっと早く言わんとや!』

まだ、先生がお元気な時、野球部のOB会があり、それに初めて出席をした際、伊藤先生に当時のお礼を言う事が出来て良かったと思っています。

恩師・・伊藤先生は、私にとって大切な事を教えてくださったまさに恩師です・・・

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人間見聞録・・・荒巻 修先生から学ぶ

荒巻 修先生・・亡くなられましたが、私の小学校5年・6年の時の担任の先生です。

私は、福岡県田川郡の糸田小学校に通いました。この小学校の先輩には、笑老ライフ研究所の会員様で、N田さん、それと井上陽水さんがいます。

私は、小学校1年生の時から、野球を始め、仲間をつくり、野球が友達の様な生活をしていました。寝る時もグローブをはめて寝たり、ボールを握って寝たりと・・・

そんな生活をしていましたので、自分で言うのも変ですが、地域の中で野球が上手な方でした。そんな自負やプライドが高くなってきていた小学校5年の時です。私は、とにかく自信に満ち溢れ、誰にも負けない・・と言う自信がありました。これは全ての事に対してだったと思います。野球と言う1つの自信が、全ての自信になっていたと思います。

そんなある日、クラスの体育の授業で、ソフトボールの試合がありました。チーム編成は、荒巻先生が行います。

チームリーダーに選んで頂いた私は、『先生、是非、〇〇君と、〇〇君が欲しい』と言った記憶があります。しかし、先生は、私の望みと期待に相反して、違う人と同じチームを組ませました。そのメンバーとは、日頃から野球をしないメンバーで、野球に興味の無いメンバーでした。従って、野球は、余り上手ではないのです。

『相手チームは、野球の上手なメンバーばっかりで・・・こんなんえこひいきやんか・・』と言うと、先生から『悔しかったら勝ってみい・・・』と言われた様な気がします。

こうなったら勝つしかない!!勝つぞ!!とチームで気合を入れ、試合に望みましたが、2対3で負けました。確か、誰かのエラーがあったと思います。試合が終わり、腹の虫がおさまらない私は、バランスの悪いチーム分けをした荒巻先生にくってかかりました。

『先生、先生が、俺たちのチームにへたくそばっかりいれたから試合に負けたやんか!!』次の瞬間私は荒巻先生から大きな・大きな拳骨を『ドシン・・』と一発頂きました。目から火が出る・・とはこういう事をいうと思います。

荒巻先生の拳骨は有名で、とっても重く・深く・ずっしりきます。

『鷹尾君、痛いか?これは、人の心の痛みだぞ』・・・

その時私は、何で拳骨をされたのかわかりませんでした。家に帰り、母に『今日、〇〇で、〇〇だった。それで俺が何で拳骨をされないといけない?』『それは、剛が悪い。もし剛がその人達の立場で、違う人が剛の様に言ったらどう思うね・・想像してごらん。そしたら荒巻先生から拳骨された意味がわかるよ。剛、良い先生と出会えたね。』

私は、それからいろいろと想像したり、考えました。

それから数日後、私は、大事な右手首の骨を2本骨折したのです。その時、いち早く先生に知らせてくれた仲間、心配してくれた仲間等々、いろいろと仲間が私を支えてくれました。

そのような仲間に対して、私はとっても傲慢で、自分だけが良ければ良い・・と思っていた事に気がついてきました。

その時、荒巻先生に『先生、だから拳骨をくれたんですね。ありがとうございます』と素直にお礼を言えれば良かったのですが、中々言えず、本当にお礼を言えたのは、今から8年程前、私が介護の分野に進み、先生のお嬢様が陶芸家ですので、その作品を購入に伺った時だったと思います。

荒巻先生は、何も言わず、私の話を聞きながら、笑って下さりました。あの笑顔、あの大きなグー、あの拳骨、そしてあの暖かい人柄・・・もう会いたくても会えません。

荒巻 修先生・・あの時、先生がくれた重い拳骨、それがなければ、何も気がつかず、自分自身で嫌だと思う様な人間になり、ひどい人生になっていたと思います。先生、助けてくれて、ありがとうございました。私も、先生から教えて頂いた事を、私と同じ様な人間がいたら、その人の為にしたい・・と思います。

先生、ありがとう。

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人間見聞録・・・三好 修さんから学ぶ

私は、田川高校の野球部の先輩で、ドジャーズの会長補佐をされていた生原先輩からアメリカで頂いた『3年間、一生懸命仕事をしなさい』という魂のこもったメッセージを胸に、あるハウスメーカーでの仕事が始まりました。

私が25歳の時、私は、特販課という部署に移動し、資産の有効活用やアパート建築の受注の仕事を行いました。その際、三好不動産という会社にお世話になったのです。

三好不動産は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、日本で初めて、不動産管理業と言う業態を確立させた会社です。

戦後、住む場所の無い方々が多い中、故三好会長が、持てる力を注ぎ込み、多くの方々が安心して生活できる民間アパートの提供を、不動産有効活用の企画とその管理という分野を確立させ、提供してこられたそうです。

その後、多くの方々が、三好不動産にその仕事の勉強をしたいという申し出を行ったそうですが、自分の会社のノウハウを隠すのではなく、それを公開し、多くの方々が勉強し、事業として行える様にご尽力をなされたそうです。

この様に『1人にするな。1人になるな。そして、皆が幸せで、前向きに生きる事ができ、幸せを実感できる状況にならないと、自分の幸せはない。』という信念でお仕事をなされていた故三好会長の後を引継ぎ、当時、常務であった三好さんが社長になられました。

そんな三好社長からは、多くの勉強をさせて頂きました。その中でも皆さんにもお伝えしたい事を何点か書きたいと思います。

①決意する事。 ②決意をすれば、その1点に全力投球!! ③人を活かす事をし、人を裏切る事はするな! ④仲間を育てても、切る事は無かれ!

数々のエピソードがありますが、その通りの生き方をなされている方だと思います。

言葉で言うのは簡単ですが、この信念に忠実に従い、自分の欲と戦いながら自分に勝利していく事は、並大抵の精神力ではできません。同じ日本人で、イチローというプロ野球選手がいます。聞くところによると、毎日、同じ事をしているとの事・・

超一流といわれる人ほど、明確な信念、揺ぎ無い信念を持ち、自分の欲に打ち勝てる強い精神力を持っていると、三好修社長から学ばさせて頂いています。

現在は、三好不動産の社長も行いながら、財団法人日本賃貸管理協会の会長もされているそうです。多忙の日々、毎朝のジョギングをかかさず、今も、社員の為、お客様の為、世の中の為に、自分と戦い、自分に勝利し続けているのだろうと思います。

三好社長、これからも全力投球!!

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