人間見聞録・・平成22年8月30日の西日本新聞より

平成22年8月30日の西日本新聞『異見・医見』のコーナーに以下の作文が掲載されていました。今日は、この作文を書かせて頂きます。

重い病気と闘うお父さんの回復を願う気持ちなどをつづった『お父さんへの手紙』を、昨年末に送ってくれた福岡県筑紫野市の近藤沙帆さん(中1)と、亨樹君(小4)のきょうだいが、新たな作文を寄せてくれました。2月に45歳で亡くなったお父さんの哲臣さんが、最期を過ごした福岡県志免町の栄光病院ホスピス病棟での様子などを書いたものです。

『愛情は一生忘れない』近藤沙帆

栄光病院は、ただの病院ではなく、私達家族にとって、ホンワカしたぬくもりを感じる場所でもありました。栄光病院で父が過ごした時間は、2月13日~20日までのわずか1週間でしたが、私たちにとっては忘れられない大切な病院となりました。転院する前、私達家族は、病院に話を聞きに行きました。栄光病院では、初めてお会いする下稲葉先生や看護師さんが、優しく熱心に話を聞いてくださいました。皆さんと話している内に、早くこの病院に父が転院できたらいいな~と思いました。説明の後、父が入ることになるという病室を見せてもらいました。病室は広く、テレビやソファ、テーブルまで設置され、『一日中、パパといられるよ』と病院が私たちを誘ってくれたように感じた事を今でも覚えています。その翌日の2月13日、父は栄光病院に転院しました。充実した設備の上、父の傍にいたいだけいられるこの病院が、私は大好きになりました。そして、忘れもしない2月20日の早朝、私と弟は、母から起こされました。父の具合が悪い事を聞き、背中がぞくっとしました。車で病院に向かう間、『パパ、生きていて!!』と祈るばかりでした。この日は、朝から父に会いに行き、病院にそのまま泊まる予定にしていた日です。夜も父と好きなだけいられるので、宿泊するのを家族でとても楽しみにしていた日でした。それなのに、父の具合が急に悪くなったことが信じられませんでした。病院に着くと、父は苦しそうにせきをして、喉にたんがたまっていました。父の顔色は悪く、私は、不安になるばかりで、涙が止まりませんでした。父の親戚もかけつけてきて、皆で『がんばって』と声をかけ、励まし続けていました。1分でも、1秒でも、長く生きて欲しくて、必死で祈り続くました。しかし、父の最期の時がきました。『パパ、パパの子供で幸せだよ。ありがとう。ありがとう、パパ、大好きだよ』という言葉を掛け合う中、父は、すう~っと息をひきとりました。8時5分でした。その日から、父がいないと思うと、私の頭が真っ白になりました。何も考える事ができませんでした。何もする意欲がわきませんでした。でも、父が『沙帆、たのんだよ』と言ってくれたよう気がして、『くじけずに頑張ろう』と決意しました。お別れの時、栄光病院の皆さんが、賛美歌を歌ってくださいました。あの曲を聴くと、今でも涙があふれてきそうになります。父と過ごした日々は、わずか12年とすこししかありません。しかし、父が残してくれた愛情と思い出、家族との絆は、私の一生の宝物です。父の愛情は、あふれんばかりのもので、父がいなくなった今も、それを感じることが出来ます。父はもういませんが、私は、この愛情を胸に『パパがきっと天国で見守ってくれている』と信じながら、これから生きていきたいと思います。

『そばにいられた幸せ』 近藤亨樹

僕は、お父さんが栄光病院で最期をむかえられてよかったなあと思ったことについて話します。1つ目は、栄光病院だとお父さんの傍に好きなだけずっといられたことです。これまでの病院だと、お父さんに会うのに、面会時間を守らなければならなくて、会いたいときにすぐ会うことができませんでした。けれど、栄光病院では、いつでも病院にはいることができました。ですから、お父さんに会いたいと思った時にいつでも行く事ができると思うと、安心でした。二つ目は、栄光病院の人達が、とても優しかった事です。いつも僕たちに会うと、笑顔で『こんにちは』とあいさつしてくれました。お見舞いに行く時『今日のお父さんはどうかな』と心配な気持ちで病院に入ります。でも、病院の人達のにこにこした顔を見ると、ぼくは、ほっとした気持ちになれました。栄光病院には、2人の下稲葉先生がいらっしゃいます。だから、ぼくは、下稲葉先生のお父さんの方を『おじいちゃん先生』、若い先生を髪の毛のツンツンした形から『ツンツン先生』と、自分の中でニックネームを作って呼んでいました。『おじいちゃん先生』は、初めてあった時から、とても親切な方でした。僕の話を沢山聞いてくださり、本もプレゼントしてくださいました。『ツンツン先生』も、僕の話をゆっくりきいてくださったので、ぼくも安心して話ができました。そんな素晴らしい先生がいらっしゃる栄光病院でよかったなあと思いました。三つ目は、部屋がきれいで、いろいろな家具が置いてあったことです。テレビ、ソファ、たんすがあり、台所もあるのでびっくりしました。ウイー(ゲーム機)を使うことができたので、お父さんの傍でウイーをする事も出来ました。お父さんの横で、お母さんとお姉ちゃんとぼくとでウイーをした時、お父さんも一緒にしている気持ちになりました。家族全員でゲームをしている気持ちになって、スゴク嬉しくなりました。今でもぼくの大切な思い出です。四つ目はの良かった事は、家族のお泊りが許されていた事です。泊まる事が出来る病院は少ないので、お父さんの部屋に泊まるのをとても楽しみにしていました。けれど、結局、僕たちは、お泊りをすることはできませんでした。お泊りをする予定にしていた2月20日のその日に、お父さんが亡くなってしまったからです。その日の午前4時過ぎに、お父さんが危ないという電話が家にあり、ぼくたちは、お母さんに起こされました。急いで病院に着くと、お父さんが苦しそうにベットに寝ていました。かけよると、せきがひどく、たんがいっぱい出ていました。ぼくは(お父さん、死んでしまうのかな)(どうにか助かってほしいな)(もっとお父さんと遊びたかったのにな)とか、いろいろな事を考えてしまいました。お父さんは絶対に死なないと信じていました。午前8時少し前に、ツンツン先生から『神様がお父さんをむかえにきているよ』といわれました。ぼくはびっくりして『パパ、もっと遊びたかったよ』『大好きだよ、パパ』と、お父さんに沢山話しをしました。ぼくたちがたくさん話しかけている中で、8時5分、お父さんは亡くなってしまいました。お父さんが亡くなった後、先生や看護師さんたちが、お父さんの部屋に集まって『イエスキリスト』の歌を歌ってくれました。その歌を聴きながら、『最期に、お父さんの為に歌を歌ってくれる病院なんて、他にないだろうな』と思うと、とても悲しいはずなのに、なんだか、うれしい気持ちになりました。栄光病院での時間は1週間と短かったけれど、栄光病院で過ごす事ができて本当によかったです。

以上です。

皆さん、感想を下さいませ。

Filed under: スタッフ日記 — takaotsuyosi 4:45 PM  Comments (0)
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